元祖「人魚姫」は、王子様から、また愛されることを願い、キスされることを待つんだけども、結局それはかなわなかったという悲劇。
宮崎駿版の「人魚姫」である「崖の上のぽにょ」では、そのオリジナルに対する、絶対反対的な目から鱗のアンチテーゼで成り立っていると言える。
「キス」はされるものだろうか? そうじゃねーだろうと。「キス」はお互いにするもんであって、どっちかがどっちかに対して、一方的に「与え」たり、「受け」たりするもんじゃねーだろうと。もちろん「待つ」ものでもない。やりたくなったら、自分からすりゃーいいじゃねぇかと。たとえ女の子の方からだとしても。
「崖の上のぽにょ」が最後のカットで言いたかったのは、(全編を通じて言いたかったのは)まさにそのことだと言える。
「キスなんか、待ってなくて、自分からやっちゃえばいいじゃん」って今回の映画のメインテーマの一つがこれだ。会いたかったら、自分から会いに行っちゃえばいいじゃん。魔法でも何でも使えるものは使えばいいじゃん。嵐でも津波でも起こしちゃえばいいじゃん。それがこの映画である。
というか、宮崎駿の女性像というのは、いつもコレ。ホントにコレ。笑っちゃうくらいこのパターンである。
過去11監督作品中、女性が明確に主人公というものが4作品(ナウシカ、トトロ、魔女の宅急便、千と千尋)。男性が明確に主人公ってのは3作品(コナン、ルパン、紅の豚)。男女の比重がほぼ同程度ってのが残り(ラピュタ、もののけ姫、ハウル、ぽにょ)。だけどこの男女比重が同等って言うけど、そのうち、「もののけ姫」と「ぽにょ」はやっぱタイトルになってる位だからやっぱ、女性主人公と言ってもいいのかもしれん。「ハウル」だって狂言回しはソフィーだし、どっちかというと女主人公色が強い。
この中にはいれなかったけども「名探偵ホームズ」でも、実際にいちばん活躍して最も強い印象を残したのは言うまでもなく「マリー・ハドソン夫人」である。
とにかく、宮崎アニメとは、「空飛ぶアニメ」であるのと同様に、「元気な女の子のアニメ」だと言ってもいい。
男主人公の3作品(コナン、ルパン、紅の豚)においても、ラナとクラリスの芯の強さ・積極性は多くのひとに知られる通りである。
いつもこの監督は、「強い女」を描く。「強い」というか、「意志のある女」。「やりたいことのある女」。「やりたいこと」つっても、「虫が好き」とか、「ハムが好き」とか、「飛行機が好き」とか、「もののけが好き」とか、わりと変なことが好きで、しかしその歪んだ嗜好と、強い意志が、結局世界を救う、あるいは世界を破滅させる、という物語ばかりだ。
ナウシカは大海簫を引き起こして、巨神兵を復活させ、あまつさえ、本来の人類種を絶滅させる存在でもある。ラナはとっとと太陽エネルギーを復活させりゃーいいし、クラリスだって早々に指輪を渡しちゃえばあんな大事件になったであろうか。いちばんヤバイのは、ラピュタのシータね。呪文三文字で何人殺しているんだろうか。
今回のぽにょも超ヤバイ。観てないひとのために、詳しく言いませんが、人類と地球を絶滅寸前まで追い込んだと言ってもいい。
そうやって、この宮崎駿の描く「元気な女性登場人物」は、いつも、自分で追い込んだ地球の危機を、自分でちょっとだけ緩和させているだけだ。その地球滅亡をした理由が「好きな虫のため」とか「好きな男のため」とかいうことにある。周囲を鑑みないで、自分の「好きなもの」のことしか考えていないという、究極のKY思考が根本にあるんである。
地球を滅ぼしても「自分の好きなこと」優先ということが宮崎駿のヒロインたちのテーマである。
そんなね、人魚姫みたいに、イチイチ暗〜く、待ってないっつーの。あいたきゃ自分から会うっつーの。どんなにみんなに迷惑かけようとも。やりたいことは自分からやるっての。それがこの映画だ。
これは反面、やりたいことをやるってことは、こんな周囲にとんでもないはた迷惑をかけるってことだけど、それわかってる? みたいなメッセージも裏に隠されている。
生きるってことは「なあなあ」じゃすまないよってことだ。
ひっそり身を引いた人魚姫の生き方は、ひとに迷惑をかけてない分はやっぱマシなのかもよ的な余韻すらある。
宮崎駿版の「人魚姫」である「崖の上のぽにょ」では、そのオリジナルに対する、絶対反対的な目から鱗のアンチテーゼで成り立っていると言える。
「キス」はされるものだろうか? そうじゃねーだろうと。「キス」はお互いにするもんであって、どっちかがどっちかに対して、一方的に「与え」たり、「受け」たりするもんじゃねーだろうと。もちろん「待つ」ものでもない。やりたくなったら、自分からすりゃーいいじゃねぇかと。たとえ女の子の方からだとしても。
「崖の上のぽにょ」が最後のカットで言いたかったのは、(全編を通じて言いたかったのは)まさにそのことだと言える。
「キスなんか、待ってなくて、自分からやっちゃえばいいじゃん」って今回の映画のメインテーマの一つがこれだ。会いたかったら、自分から会いに行っちゃえばいいじゃん。魔法でも何でも使えるものは使えばいいじゃん。嵐でも津波でも起こしちゃえばいいじゃん。それがこの映画である。
というか、宮崎駿の女性像というのは、いつもコレ。ホントにコレ。笑っちゃうくらいこのパターンである。
過去11監督作品中、女性が明確に主人公というものが4作品(ナウシカ、トトロ、魔女の宅急便、千と千尋)。男性が明確に主人公ってのは3作品(コナン、ルパン、紅の豚)。男女の比重がほぼ同程度ってのが残り(ラピュタ、もののけ姫、ハウル、ぽにょ)。だけどこの男女比重が同等って言うけど、そのうち、「もののけ姫」と「ぽにょ」はやっぱタイトルになってる位だからやっぱ、女性主人公と言ってもいいのかもしれん。「ハウル」だって狂言回しはソフィーだし、どっちかというと女主人公色が強い。
この中にはいれなかったけども「名探偵ホームズ」でも、実際にいちばん活躍して最も強い印象を残したのは言うまでもなく「マリー・ハドソン夫人」である。
とにかく、宮崎アニメとは、「空飛ぶアニメ」であるのと同様に、「元気な女の子のアニメ」だと言ってもいい。
男主人公の3作品(コナン、ルパン、紅の豚)においても、ラナとクラリスの芯の強さ・積極性は多くのひとに知られる通りである。
いつもこの監督は、「強い女」を描く。「強い」というか、「意志のある女」。「やりたいことのある女」。「やりたいこと」つっても、「虫が好き」とか、「ハムが好き」とか、「飛行機が好き」とか、「もののけが好き」とか、わりと変なことが好きで、しかしその歪んだ嗜好と、強い意志が、結局世界を救う、あるいは世界を破滅させる、という物語ばかりだ。
ナウシカは大海簫を引き起こして、巨神兵を復活させ、あまつさえ、本来の人類種を絶滅させる存在でもある。ラナはとっとと太陽エネルギーを復活させりゃーいいし、クラリスだって早々に指輪を渡しちゃえばあんな大事件になったであろうか。いちばんヤバイのは、ラピュタのシータね。呪文三文字で何人殺しているんだろうか。
今回のぽにょも超ヤバイ。観てないひとのために、詳しく言いませんが、人類と地球を絶滅寸前まで追い込んだと言ってもいい。
そうやって、この宮崎駿の描く「元気な女性登場人物」は、いつも、自分で追い込んだ地球の危機を、自分でちょっとだけ緩和させているだけだ。その地球滅亡をした理由が「好きな虫のため」とか「好きな男のため」とかいうことにある。周囲を鑑みないで、自分の「好きなもの」のことしか考えていないという、究極のKY思考が根本にあるんである。
地球を滅ぼしても「自分の好きなこと」優先ということが宮崎駿のヒロインたちのテーマである。
そんなね、人魚姫みたいに、イチイチ暗〜く、待ってないっつーの。あいたきゃ自分から会うっつーの。どんなにみんなに迷惑かけようとも。やりたいことは自分からやるっての。それがこの映画だ。
これは反面、やりたいことをやるってことは、こんな周囲にとんでもないはた迷惑をかけるってことだけど、それわかってる? みたいなメッセージも裏に隠されている。
生きるってことは「なあなあ」じゃすまないよってことだ。
ひっそり身を引いた人魚姫の生き方は、ひとに迷惑をかけてない分はやっぱマシなのかもよ的な余韻すらある。
以下「崖の上のぽにょ」感想のメモ。あとで加筆。
●「ファンタジー」というイマドキ流行のカテゴリーよりも、昔ながらの「児童文学」の枠組みがぴったりはまるような感じ。
「飛ぶ教室」とか「いやいやえん」とか。ホグワーツ魔法学校のノリではない。
宮崎駿は確か学習院大学、児童文学研究会に所属していた。
「ファンタジー」ってのは、SFの1ジャンルというか、「子供の心を忘れない大人のために」みたいな、くさくて気取ったマーケティングの産物みたいな気がするけれども、「児童文学」は、そんな「エセ子供(ぶった大人)」は最初から相手にしない。もっと純粋に、子供のためにという姿勢がある感じ。
だから、「児童文学」は、「出てくる大人」がみんな「子供にとっての大人」。「本物の大人」ではない感じがする。
●崖までまるまる海の底、水の中には、原始生物がというのは、星新一「午後の恐竜」や、宮崎駿「シュナの旅」なんかのイメージ。あそこがいちばん好き。
●子供たちは、「名探偵ホームズ」の「ミセスマーサ」を探している女の子。
●結局いちばんおいしいのは、やっぱり、山口智子。日本人の永遠の好感度女優。
最初、キャスティングを聞いた時に、また「チョイ役」で話題集めかと思ったけれども、ふたを開けてみれば、もしかしていちばん台詞の多い役じゃなかろうか。準主役と言っても過言ではなし。大人の中ではいちばん出てくるひとでした。堅い部分も残るものの、これはね、山口智子のアテ書きに近い人物像。たぶん、宮崎駿も好きなんだろう。糸井重里、木村拓哉に次ぐ、名キャスティング。
●いろんな意味で集大成を感じる。山口智子は「トトロ」の歌を歌ってるし。「千と千尋」のトンネルみたいなのは出てくるし。「カリオストロの城」かと思うような運転だし。ある種の「自己パロディ」がいくつもみられるんだけど、これはやっぱり最後のファンサービスみたいな感じがする。
●欠点というほどでもないが、あえて、何か文句的なものを言うところがあるとすれば、「話の単純さ」だとはやっぱり思う。それは俺が言わんでも、これについて、文句を言うヤツがいるとすれば、そこにもってくるだろうなーとは思う。特に結末が「素直」すぎる印象はあるかも。
しかし、話はもちろんややこしくすればいいというものでももちろんない。
「ハウルの動く城」なんてあきらかに複雑に過ぎる。ただ、その点、絶妙だったのは、やはり「千と千尋の神隠し」だ。あの広げ方に、収め方、あのストーリーは本当に素晴らしかった。私の好きな「魔女の宅急便」や「カリオストロの城」なんかも、すげー単純な話だ。
●「ファンタジー」というイマドキ流行のカテゴリーよりも、昔ながらの「児童文学」の枠組みがぴったりはまるような感じ。
「飛ぶ教室」とか「いやいやえん」とか。ホグワーツ魔法学校のノリではない。
宮崎駿は確か学習院大学、児童文学研究会に所属していた。
「ファンタジー」ってのは、SFの1ジャンルというか、「子供の心を忘れない大人のために」みたいな、くさくて気取ったマーケティングの産物みたいな気がするけれども、「児童文学」は、そんな「エセ子供(ぶった大人)」は最初から相手にしない。もっと純粋に、子供のためにという姿勢がある感じ。
だから、「児童文学」は、「出てくる大人」がみんな「子供にとっての大人」。「本物の大人」ではない感じがする。
●崖までまるまる海の底、水の中には、原始生物がというのは、星新一「午後の恐竜」や、宮崎駿「シュナの旅」なんかのイメージ。あそこがいちばん好き。
●子供たちは、「名探偵ホームズ」の「ミセスマーサ」を探している女の子。
●結局いちばんおいしいのは、やっぱり、山口智子。日本人の永遠の好感度女優。
最初、キャスティングを聞いた時に、また「チョイ役」で話題集めかと思ったけれども、ふたを開けてみれば、もしかしていちばん台詞の多い役じゃなかろうか。準主役と言っても過言ではなし。大人の中ではいちばん出てくるひとでした。堅い部分も残るものの、これはね、山口智子のアテ書きに近い人物像。たぶん、宮崎駿も好きなんだろう。糸井重里、木村拓哉に次ぐ、名キャスティング。
●いろんな意味で集大成を感じる。山口智子は「トトロ」の歌を歌ってるし。「千と千尋」のトンネルみたいなのは出てくるし。「カリオストロの城」かと思うような運転だし。ある種の「自己パロディ」がいくつもみられるんだけど、これはやっぱり最後のファンサービスみたいな感じがする。
●欠点というほどでもないが、あえて、何か文句的なものを言うところがあるとすれば、「話の単純さ」だとはやっぱり思う。それは俺が言わんでも、これについて、文句を言うヤツがいるとすれば、そこにもってくるだろうなーとは思う。特に結末が「素直」すぎる印象はあるかも。
しかし、話はもちろんややこしくすればいいというものでももちろんない。
「ハウルの動く城」なんてあきらかに複雑に過ぎる。ただ、その点、絶妙だったのは、やはり「千と千尋の神隠し」だ。あの広げ方に、収め方、あのストーリーは本当に素晴らしかった。私の好きな「魔女の宅急便」や「カリオストロの城」なんかも、すげー単純な話だ。


