吉祥寺で暮らして働くマーケッターの、本と映画と仕事の日記
08年前半のまとめ
今日は6月30日。今年もちょうど前半が終了。前半大晦日。
そういうわけで、この半年について。

■仕事

先日計算したけれども、この半年の売り上げは相当いい。過去最高を更新。
折り返しっつても、これからの半年はこれまでと同じ額はいかないとは思うけれども。
なぜなら、私の場合、一番の売り上げタイミングが、1月〜3月なんで。

今年度の好調の原因はたぶん、これまでのお客さんとも良好かつ順調に売り上げが続いているのに加えて、新しく柱とも言えるようなお客さんとのおつきあいが本格的に始まったため。
これまで全顧客企業数が13社くらいで、そのうち、2社が超大黒柱って感じだったのが、さらに3本目の柱が建った感じがする。

■本

読んだ本で最大の成果は

(1)角田光代「対岸の彼女」

これはびっくり。それまでチョボチョボ読んでいた他の角田光代とはまったくの一線を画す。
メチャメチャありふれた題材でありながら、どうしてこんなに感動的な物語になるのか、本当に不思議。まさに小説の底力を感じた。
同じ直木賞受賞作でもある、唯川恵「肩越しの恋人」も、考えてみたら同じような題材。現代の対照的な生き方をする二人の女性の物語という意味で。しかあああし、この角田光代の代表作とは月とすっぽん。まるっきりレベルが違う。
あらためて思うことは、小説というのは、「あらすじ」なんかどーでもいいんだよなぁということ。
物語に大事なことは、ストーリーテリングじゃない、ディティールだけだと、本当に思う。ディティールの積み重ねでしかないね、あらゆる芸術は。
とにかく、ストレートに感動したという小説なんて、久しぶり。

(2)西村賢太「けがれなき酒のへど」

一連の西村シリーズ。素晴らしい。私小説の力を、このわがままなDV男が一人で蘇らせたと思う。
車谷長吉じゃー無理だったんだと、西村賢太だからこそだと。
今いちばん応援したい作家。
この人のことを誉めるとき、ネット上ではみんながこういう
「おもしろい、だけど、売れちゃったら、ダメになるだろうね」
・・・確かに、そりゃーそうかもしれない。
しかし、ホントにダメになるかどうか、私は確かめてみたいと思う。
芥川賞の選評で
「この人は大笑いだけれども、本人は笑われてるとは思ってないだろうからダメ」
というニュアンスのことが出てたようだが、そりゃそうかもしれない。
つまり、この無自覚な貧しい今がそのまま切り取られているからの奇跡的な(偶然の)傑作が昨今の一連のものだろうというのが、世間の西村評の多くを占めているようだ。
そういう言い方をみながしたがるのはとてもよくわかるけれども、私はそれでもあえて、心から期待している。どうぞそういう斜に構えた批評家たちを乗り越えて、いつまでだっても、金にせこくて、性欲が強く、情けなくて、暴力的で、サイテーな西村賢太であってほしい。そして永遠に、あのわけのわからんダーレも知らない妙な作家のことを奉りつづけて、賞金はみな無意味に浪費してほしいと思います。
とにかく心から応援したい、西村賢太。マジで、今イチオシ。


■映画

(1)「クローバーフィールド」

あーもーこれ最高。この方面で今最高の到達点。「グエムル」は超えたと言える。

(2)「クワイエットルームへようこそ」

これが、意外とよかった。似たようなスタンスの映画「腑抜けども〜」よりもずっとコッチの勝ち。

「インディジョーンズ」はまあ、ファンサービスというか、お祭りみたいなもの。


そんな感じの08年前半。
08年後半も張り切ってGO!!
会議嫌い
日曜日、午前中は仕事。
午後は、マンションの管理組合、理事会。
2時間ほど。

昔からこの手の会議が嫌で嫌でしょーがない。
会社をなんで辞めたかって、会議がばかばかしいと思っていたからというのがいちばん大きい理由かもしれないってくらい。

人と顔つき合わせて、学級委員会みたいに、討議する、その行為がものすごくあほらしく感じる。
そもそも民主主義をぜんぜん信用していない。
民主主義というのは、多数決が原則なんで、頭の悪い意見9人と、正鵠を得て将来を見通した優れた意見1人の場合、頭の悪い意見に従うというのが、民主主義。
その民主主義の基本となるのが、こうした「会議」である。「話せばわかる」というものである。
話してもわかんねーよ、馬鹿。

頭のいい人が、チャッチャカチャーと決定をしていく、それがなにより効率的だと思う。
ズルズルわがままばかりの非論理的で非生産的な議論に付き合わされるのはとにかく苦痛だ。
時間の消耗という気がする。
組織というのは常に、こうした無意味な消耗に時間をとられていくものである。
あとひとつ
金曜日にまた一つの案件を納品したので、こうなってくると俄然、落ち着いた。
あと一つで今回のアラシは終わる。
実は、もう一件このタイミングで「特急」の引き合いがあったはずなのだが(しかもそれがいっちばん引き受けたくない死神博士の件)その話が立ち消えになっている。もちろんつつくと藪から蛇を出すような真似はしない。途中でこの会社と喧嘩して、「オタクとはもう取引しませんっ」とイイはなったから、それが影響したのかもしれない。だったらそれはそれで幸せな結末である。
自由業者とは、やっぱり自由業者であって、「嫌いな客の仕事は断る自由」だってちゃーんとあるんであります。

とにかく、あとひっとつ、あとひっとつ。
これはテレビ番組関連の件。これもレギュラーで年1〜2回書いてる。
何をどう書くべきかはもう了解済みなんで、悩まずストレートにGO。
仕事でいちばん時間を食うのはいうまでもなく「悩む」時間です。
そしてその「悩む」間には、どこまでもキリがなく、悩んでいる限り、作業ははじまらないし、言うまでもなく永遠に終わらない。仕事を速く完成させるには、いかに「悩まないか」が一番のポイントである。
悩まないためには、どうればいいか。矛盾するようだが、「考え」ればいい。
つまり、誰かに何かを言われても、明確に納得させることのできるだけの「論理」を作業に裏打ちさせればいい。
「悩む」本質とは何か、それは私は見抜いている。「悩み」とは「いかに手を抜きたいか」で悩んでいることが多い。つーかまーたいていの人の悩みってのはそうなんだよね。「ラクしたい」「二度手間は嫌だ」とかそういう横着で怠慢な気持ちが常に、本質的な思考をそらせて、「悩み」に落ち込んじゃうわけだ。「手を抜きたい」けど、そうすると「バレる」かなーとかね。
「正々堂々」と「時間はかかっても、これはこれでやるのが絶対にベストだ」という理屈を、自分の背景に持って自信を持ってかかれば、悩み無用リーブ21である。
つまり、「ベストクオリティの仕事をする」という目標のために、「自分は休みたい、ラクしたい」という自分勝手な欲望を排して、客観的に考えれば、おのずと道は見えてくる。「悩まず」に「考える」とはそういうことだ。

まーとにかく、今回のコレは完全おまかせなんで悩まずにすむんだよねー、いつものパターンだし。
そういうわけで、金曜日にはあらかたグラフができた。
土曜日は午前中で、PowerPointに貼り付けて、タイトルなど整理。結局110ページ分くらい。
午後は早速コメントを書き始める。
いつもでも、私は70〜80ページのコメントなんか、だいたい一日かからずに書くからね、110ページくらい今日一日で書いちゃうぞ。明日は要約だ。そしたら完成だ、いえー。


関係ないけど、最近の感想、印象など。
「転々」・・・三日月さんが一瞬の友情出演。その他あきらかにノリが「時効警察」系。同監督の「亀は〜」よりはちょっとマシな感じ。もちろん「時効警察」の方が圧倒的に素晴らしい。いまどき、優れたテレビドラマを超える映画なんてまず存在しない。
転々でいちばんいいのは、言うまでもなく、天才吉高由里子。どれだけ天才なのかと。いちばんかわいいのは言うまでもなく一瞬の三日月さんですが。三日月、オダギリジョーと結婚すればいいのに。
二人の結婚はどう考えても相手を間違えている。

「どうで死ぬ身の一踊り」・・・西村賢太に真剣愛。しばらくこの人のおっかけになろうと決意。日本文壇最注目の人。断然、心からのファン。久しぶりに本気で応援したいと思える作家に出会えた。ここまでして笑いをとりにいった人がいったいどこにいたであろうか。どんな芸人でもここまではない。半端じゃない。真剣に気に入った。

「漫画原稿料はなぜ安いのか」(竹熊健太郎)・・・いろいろ「へー」的な漫画トリビア満載。
「現金恋愛」(ナツ)・・・言い訳の多い交際。「ホスト慣れしすぎ」て裏読み過ぎな人。ウソの世界に生きるってのはやっぱ大変。
「メッタ斬り2008」・・・この二人にも飽きない。毎回毎回大笑い。今回はとくに、ゲスト石田衣良の扱いが素晴らしい。どこまで馬鹿にしてどこまで持ち上げるのか。石田衣良vs.中原の喧嘩はどこまで続くのか。いずれゲストにジュンちゃんかシンちゃんかテルちゃんかツモ爺を呼ぶ日まで、このシリーズは続くことであろう。長嶋有にも大笑いであった。やっぱこの人おもしろい。
オレオレ馬鹿
今週の山場乗り越え状況の整理。

(1)某広告の件
  →水曜日早朝完全納品・脱稿

(2)家庭用品の件
  →火曜日深夜に納品

(3)医療関係Aの件
  →水曜日まるまるかけて完成、木曜日午前中に納品

(4)医療関係Bの件
  →木曜日、半分くらいできる。金曜日夕方には完成・送信の見込み。

(5)TV番組の件
  →木曜日データ整理開始。意外と楽そう。土日と月曜日で終わらせたい。

先週から始まった厳しい仕事の重複も、なんとかピークを過ごした気がする。
5件のうち(1)〜(3)と半分以上は納品済み。
(4)と(5)は意外とラクなことが今日仕事開始して判明した。
はっきりいって今回はとにかく(1)が超ヘビーだったことよ。
通常の倍くらいの頭と神経は使ったし、倍以上の費用はもらったけれども。

終了案件からは、続々と「お礼」の電話やメールなども届く。
金額の上乗せしますと言ってくれるお客さんもいるし。

うーん、さすがは俺。やっぱ、俺。
前々から薄々思っていたことだが、俺、天才なんとちゃう?
天才かどーかはともかく、この2週間の生産量はマジで誇れるものだと思う。
俺以外にこんなことできるやつ、世界中探してもいないね、断言するけど。

私の目指す姿とは
1.世界一報告書作成スピードが速いマーケッター
2.世界一カッコイイ報告書を描けるマーケッター
3.世界一内容がクリアーで深い、高いクオリティの報告書を書くマーケッター
4.おまけに、世界一愛想がよくて感じのイイマーケッター
5.そのくせ、なんと驚きの安さ、年がら年中スパークリングセール、3割、4割当たり前ぇ!!

1〜5が私の目指すフリーランサー像であります。
本当に、そんな人が業界にいたら、まずまちがいなく、注文殺到間違いなし。
もちろん、各方面に知られてないとダメなわけですが、そりゃもちろん営業努力が一方で必要。
ただし、知っている人にとっては、他のどのスタッフに頼むよりも、まず最優先で声をかけてスケジュールを確保の予約を入れることになるでしょう。
私はこれまでそういう状況を目指してきたし、今後はますますその状況の先鋭化を進ませます。

で、今も次の件(家族関係ジャンル)のデータが届く。
これも、「時系列」調査の仕事。毎年、同じような調査をして、その推移を確かめる調査である。
昨年の比較をするため、昨年のレポートも届いている。
それを開くと、これが一目見るだけで、あきらかにクオリティが高い。
ぱっと見るだけで、いかにそれがレベルの高いものであるかがわかる。

これ、確か、去年、俺が手を付けたもののはずであるが、こんなカッコイイもの、作った覚え無し。
たぶん、俺がやったのに、誰かが(現実的に考えれば、私に発注をした担当者)、相当手を加えて、こういう感じにしたんだなー。
俺のいつものやり方と結構違うし。こんなにうまくはできないよなー。
あーあ、去年の俺のヤツ、やっぱダメだったのかなー・・・・・

・・・・と思って、去年の私が作ったヤツの最終ファイルをハードディスクの奥の方から引っ張り出してみてみると、ありゃ、そのまーんまじゃん。まったくナンの変化もなし。
やっぱ作ったの俺じゃん。
と改めて、自分の仕事のうまさに酔いしれるのであった。


ヘビーな仕事がドコドコ片付きつつあるので、結構テンションがあがっています。
あと月曜日までに2本あるし、その後も予約が続々と入ってますが、そんなん超楽勝だよねん。
自称・男っぽい女
ここ10年以上の傾向で、女性のことを「男っぽい性格」とか「男前の性格」言うのは、少し「誉め言葉」であるようなニュアンスが漂っている。それはちょっとだけ「自嘲(笑)」の雰囲気も残しつつも、やはり言われた本人はヤニさがるもので、自分で言うと「ちょっと誇らしげ」な面もあるのは確かである。「あたしって、ぜーんぜん、女らしくないって言われる〜」というのは、一見「自己卑下」にみえるが、実際にはそれは決してネガティブなものと本人はつゆほども思っておらず、「ちょっとした自慢」に近いものである。パッと見は謙遜を装っているようだが、実際のトコロは、自慢ってのは、頭の悪い女性陣(女性がみな頭が悪いわけじゃなくて、女性の中の頭の悪い人って意味)に昔からすごくすごくよく現れるクッサイ共通傾向と言える。

逆に、男性のことを「女々しい」だとか「女みたいに、いつまでもグチグチと」とか、言われる場合は、昔から変わらず、だいたいが悪口ととらえられる。男が自分のことを、「女々しい」と語る場合に、そこには「自慢要素」はほとんどない。たいていが「ギャグ」か、マジで「自己卑下」に近いような場合に使われる言葉だ。これは昔からそうだし、今でも特に変わらない。

つまり、上記2点を総合すると、「男らしさ」は男女性別を問わずに、プラス評価点であり、「女らしさ」は男女問わずに、マイナス評価っぽく変化しつつある。女性に「女の子らしいね」というのは、誉め言葉になることもまだまだあるけどね。でも、そんなこと言われると不愉快と感じる女性は増えているし、「男っぽい」と言われたい女性はもっともっと増えている。


そんなに「男っぽさ」というのはイイコトなんであろうか。
「女らしさ」はよくないことか?

こないだ読んで、うーん、さすがと思ったのは「臨死 江古田ちゃん」のエピソード。
イラン人(だか中東系の外人)の、焼鳥屋のご主人にむかって、酔っぱらったオヤジ客が、「あんたは、日本人より日本人らしいよっ」とかご機嫌で語る。おそらく酔っぱらいオヤジはある種の誉め言葉のつもりで語ったに違いないんだろうが、そのイラン人は、酔っぱらいが帰るやいなや、
「なにが、日本人より日本人らしいってんだ、俺はイラン人やっつの(怒)!」
と怒り出すのである。
そりゃそーだ。
この酔っぱらいオヤジは、「日本人であること」はある種の価値のように、語っているけれども、イラン人にとって、必ずしも「日本人になりたい」なんて思ってはなかったかもしれない。日本に来ている外国人はみな日本人になりたいんだろうと思っているのは、ちょっと浅はかで思い上がった考え方である。


たぶん、自分のことを「男っぽい(女らしくない)」と語りたがる女の人ってのは、よっぽど「男らしい」ってことがイイコトだとか思ってるのかもしれない。あるいは「女らしい」とされていることなんてまっぴらと思っているのかもしれない。女らしいことで、たとえば「料理がうまい」とか「掃除もちゃんとする」とか「細かいところに気配りがある」とか、よくわかんないけどそういうところ? そういうのすげーやりたくないというか、そんな女らしさとかやりたくねーよーと思っている女の人が「私って女らしくないんだよねー」とか語っているような気がする。
「男っぽい」とはガサツなところはあるが、サッパリしてて、あんまりクヨクヨしないみたいなところを強調したい場合の言葉であろうか。

私が一般的な「ジェンダー的志向」にどうしても違和感というか、不愉快さを感じるのと、ちょっと似ている。やることやんなくて、ただ権利だけ主張してる、みたいな、そういうきがどーしても残るのだ。
いざとなれば「女だから」という権利をちゃんと使って逃げることもするくせに、必要な時は「あたしは女らしくないから」という主張で、いくつかのことから逃げているような。
そういう「コウモリ的」な主張が、「自称男っぽい女の人」からは感じられるのだ。
すげー細かい具体的な話をすると、たとえば、体力のいるキッツイ仕事の時には「あたしは一応女性なんで、その辛い仕事はパスさせてもらってこっちの楽な仕事させてもらうわね」的態度でいるのに、その後の飲み会になったときには「あたしは男っぽい性格って言われてるから、人にお酌とかしないからね」とか言い出すようなケースか。
おまえは女であることを言い訳に使うんなら、女であることのある種の役割も引き受けんかーいと思ったりするのである。男なんだか女なんだかはっきりせいと。都合のいいときだけ「女」持ち出し、都合が悪くなると「女やめる」って、それはやっぱりズル過ぎじゃねーのと。
本格的な学問の世界やら、よく知りませんけれども、一般的な日常生活レベルで、「ジェンダー」とか「女性の権利」とか持ち出す人には、とにかくこのタイプがやたらと多くて辟易なんであります。
「女」であることの「得」があるなら、一緒に「損」も引き受けなきゃやっぱ公平じゃないような気がする。
「私は男っぽいから」と言い出すのなら、映画を「レディースデー」に見に行くことは断固として固辞するとかさ(それはまー冗談ですが)。
一貫性がない、つーか、とにかくセコくてズルいんだよね。「自称・男っぽい女」。
あと、最初書いたように、「男らしさ」はそんなにイイコトで、「女らしさ」ってそんなに損だったり、悪いことだったりするだろうか? 「自称・男っぽい女」たちはそんなに「男になりたい」んであろうか。じゃ、男やってみたら、と思いますよ。

中学生が、まだまだなーんも知らんしなーんもできないガキのくせに、いっぱしの大人ぶって、権利を主張しているような、気恥ずかしさと腹立たしさに近い。
大人としての、一人前としての主張をしたいんなら、それに応じた実績を作らなきゃダメだ。
いろんなことを引き受ける覚悟や能力もないくせに、「自分以外の何か」「自分以上の何か」に勝手に自己投影するのってば超ダサイ上に、腹が立つ。
キムタクのクリエイター気取りみたいなもんだ。
一段落
今日はちょっとだけほっとしている。
昨夜遅く(今朝方)2本の提出が無事終了。
一方は相当力入れてやった。一方はちょっと「やっつけ感」ありか。なんつっても、時系列調査とはいえ、ほぼ同じフレームを使って作っただけ。そりゃつまり、数値入れ替えただけじゃんと思わなくもない。いや、世間の調査報告書のそうさねー9割はそういうものだってのは私はよく知ってますが、私はそういうの嫌で、常に毎回プラスアルファを出し続けて、それがまーある種の評価につながっていたと思うのですが、今回はちょっと楽してしまった。まーしかし、26日提出締め切りのところを24日中に出し終えたのはまーとりあえず一安心。私たちのような受注産業の場合、一番の問題になるのは、提出期限になっているのに、提出できているモノがないという状況。その提出されたモノがいいものか、どうかってのは次のステップの評価基準で、まずは「提出」されてないと、0点確実だからね。

で、今朝は少し気がゆるみ、あまりにも外出をしていないので(体調がおかしくなりかけていたので)自転車で吉祥寺駅へ。
ストレスのためか、買い物。
●がら空きだったため「サトウのメンチカツ」を15個。ねらい目は10時15分なんであります。
●「僕は落ち着きがない」(長嶋有)→なんとサイン本ゲット(ルーエ)
●「ほのエロ記」(酒井順子)
他漫画数冊。
1時間後に帰宅すると、Amazonnからも届いている
●「どうで死ぬ身の一踊り」(西村賢太)
●「文学賞メッタ斬り・2008年版」(例の二人+石田衣良とか長嶋有も対談)
●「漫画原稿料はなぜ安いのか」(竹熊健太郎)
●「現金恋愛」(ナツ)
●「1億5千万円の恋」(なお)

下の2つは、同じような本。世間じゃホストブームは終わったようですが、いまだ、私の中ではホストドキュメンタリー系への興味は続く。
それにしても、ホスト好きはナツとかなおとか二文字ネームが好き。

さて、そうして、休憩タイムの憩いグッズもそろったので、今日は次の件に集中。
今日の目標は、この報告書を一日で仕上げることだ。
ちょっと無謀だが、大丈夫、私はやればできる子だ。
コレの提出期限は27日の金曜日。今日が25日の水曜日、今日中にやって明日26日の朝に出せば無問題。
そして明日は別件、30日締め切りと言われているものにとりかかる。これをできれば27日の金曜日までに出したい。
そして28日の土曜日からは別件、3日までと言われているものにとりかかる。これをできれば30日までに出したい。
そして30日の月曜日からは別件(以下略)

そういうわけで、今日はやる。この件を集中させる。
やっぱ一つの仕事にかかりきりになると、心の安心度が違うね。
昨日までは2つをほとんど同時並行だったからとにかく心が落ち着かなかった。
その2つが終わってもまだまだ残ってる〜と思ってたし。
しかし、今日は集中だ。
たぶん、60ページくらいじゃなかろうか。今までの2つに比べたらチョー楽勝。
夜の8時くらいまでにグラフを全部完成させて、コメントをそれからはじめたら、2時くらいには終わると思う。余裕であります。
そういうわけで仕事に戻ります。
ゴーダホリック
毎日毎日ガッチガチに仕事。
これで結構頭を使う仕事なんで、結構脳みそが疲れてくる。
朝起きてからの3時間くらいはぶっ飛ばす。
午後昼飯を食ってから1〜2時間寝る。
これで、多少メモリは回復して、それからまた2時間は頭の回転は持つ。
が、そろそろ、かなりへたばってきて、とにかく仕事が前に進まなくなる。
もうね、なにもかも考えることがうんざりしてくるのである。
人の集中力の限界にここんところ毎日挑戦中という感じ。
でもまだまだその日のノルマは終わらない。
もう、夕飯頃になると、なんも考えられなくなる。
で、いったんここで、食事と風呂で、リセットをする。
が、とにかく頭が疲れているので、そうしたプチリセットじゃ、なかなか頭は回復しない。

ここ数日、外出は一日一回近所のコンビニに行ってジュースを買ってくるだけ。
足が使わないから妙にむくんでるし。

そんなこんなをしているうちに、やっと、Aの件とBの件、ほぼおしまい。明日の朝にはこの2本が終わる。微修正は出てくるだろうけど。結局2本に1週間かかった。明日でできればもう一本あげたいけれども、さすがに一日じゃ無理かなー。でも、そうしないと後が押してるんである。

それはともかく、最近見つけたおもしろいサイト。
これが「マニアだ」という典型。
いやー久しぶりに、本当のオタクを見た感じ。
ブログがキッチリ定着したのが2005年くらいからか。それ以降あらゆる人がネット上で情報発信ができるような世の中になってきたわけだけれども、そうすると、もちろんネット上には玉石混淆というか、ゴロゴロした石コロばかりになってきて、「これは本当のスゴイものだ」ってのがなかなか見つかりにくくなってきます。
これはスゴイです。
好き嫌いを超えて、感心する。
昔、ブログがなかった時代に、インターネットでサイトを作って情報発信するのって、こういう、何かしらマニアな人たちのものってのがもっとあったように思います。その典型みたいなものです。

ずばり、高村薫の超スーパーファンサイト。
てゆーか、高村薫の登場人物「合田刑事」に対する熱狂的信者サイト。
それが、この偏執的な、ある意味キチガイじみた、フリークスサイト(←超誉め言葉)。

ゴーダホリック<合田中毒>

であります。
超スゴイよ。
特に、たとえば「レディジョーカー」に登場するシーンを全部写真に撮ってきてるトコとか、唖然とする濃度の情報量。年表も気が狂ったように精密。
ファンサイトは各種あれども、さすがは合田さんのファンだけあって、超マニアック&仕事が丁寧。
合田刑事かっこいーからなー。
映画「マークスの山」では中井貴一だっけ。「レディージョーカー」は石原プロの新人だっけ?
どっちもちょっと違うよねー。
誰だろう、ベストキャスト。
宮崎駿的仕事
毎日毎日、延々と書き物を続けている。
ノルマはそれなりに消化中。
同時並行が、
A社から2件、それぞれ別の担当者
B社から2件、それぞれ別の担当者
C社から1件
あるわけであります。

で、A社に遅れている件の言い訳で、「A社の他の担当者の仕事やってるんでぇ」ってんならまだ話はそれなりに納得してもらえるところもあるけれども、A社の一つの件が遅れているのが、C社の件のせいなんで、言い訳は通らないわけであります。もちろんその言い訳はB社には通らない。

とにかくひとつひとつは猛スピードであげていかないと、どっか別の会社、別の方々にご迷惑をおかけしてしまうのがヤバイ。一応締め切りを遅れたなんてことだけはないようにしてきたし、それように対応しているわけだけれども、絶対に、このC社以外の人たちは「今回、おっせーなー」くらいには思ってるはずなんだよね。空いてりゃ、私なら普通どれもこれも先週のうちに出してておかしくないことなんで。
そんな状況なんで、今日新規一件引き合いがあったけれども、急ぎの件だったんで、さすがにそれは丁寧に礼を尽くしてお断りさせていただいた。さすがに今週と来週はもう無理。

とにかく気が休まらない。
けどまー忙しいのはいいことです。
どこにも遅れては(まだ)いないのだし。
私は完璧主義なんで、どれもこれも100点を取らないと気が済まないタチなんである。


あーでも、7月3日が一つの目安で、今の予約分はだいたいそこで手をはなせるはず。冒頭の5件の他にこれから入ってくる2つもあるのだけれども、それも7月3日には片がついているはずなんである。
そうすりゃ、もう、個人的夏休みでGO!!
それまではちょっと3週間ばかりヘビーワークを続けなければならない。

忙しくしているのは、たぶん、自分が忙しいの好きなんだからとは思います。
ちょっと嫌でもあるけれども、本質的に、潜在的にハードワークを美しいと感じる美意識がどっかにあるんだと思う。
子どもの頃から、漫画とかアニメとかすごく好きだったけれども、だいたい漫画家の修羅場の話とか、アニメの制作現場のめちゃくちゃな進行の話とか、いろいろ話聞いたり読んだりするじゃないすか。
手塚治虫が何本も同時連載で地獄だったのを、藤子不二男が手伝ったとか、「アルプスの少女ハイジ」で宮崎駿は全50話以上の全カットのレイアウトをすべて描いたとか、泊まり込みで何日も寝てない話とか、ヒゲそってないとか、風呂入ってないとか、家帰ってないとか、そういう、「働きマン」な大人たちの話を、子どもの頃に、何度も何度も読んだりして。
あれがたぶん、自分の中ですり込まれているんだと思う。
「大人の仕事」ってのはああいうもんだという意識が、あの漫画やアニメの作り手たちの話から頭のどっかに形作られちゃったんだと思う。

だから、今の仕事の、毎度毎度の綱渡りな仕事量が、私は決して嫌いじゃない。
心のどっかでワクワクしている。
これもどれもね、手を抜き始めればぽんぽんぽーんと楽勝ですんじゃったり、他のスタッフの人に外注したりすれば、話は簡単だったりするんだけれども、そういうのは極力避けようとしているってのは、やっぱり、あの手塚治虫や宮崎駿の生き方を尊敬しているからってのがあるんだと思う。

昔から、「尊敬している人は誰」って質問には、間髪入れずに「宮崎駿」と答えてきたけれども、これは、彼の作るアニメーションが好きってだけじゃない。別にあのキザにもみえるエコロジーやら、説教がましいヒューマニズムやら、いい年こいて、どうでもいいっつーか、当時からたいして影響なんか受けなかったんだけれども、私は、たとえば「アニメージュ」なんかで読んだりした(当時の「アニメージュ」編集長は、今のジブリ社長のスズキさんなんで、「アニメージュ」が宮崎氏をスターにしたというのはあきらかにあるんであります)宮崎氏の鬼気迫る仕事ぶり、徹底した完成度の高さ、一切の妥協を排したクオリティ、そういうものを結局やっぱり「気迫」と「根性」で押し切るようなところ、そういう仕事に対する情熱と姿勢に、骨の髄から感動したというのがいちばん大きい。
宮崎駿でいちばん感動的な作品は、宮崎駿氏本人の仕事姿勢なんだよね。
宮崎駿のインタビュー記事が、いちばんおもしろい宮崎作品であったりする。
とにかくその宮崎イズムみたいなものに、多感な中学生時代にガツーンとやられた。
あの影響が絶対に大きいと思う。

他にも影響を受けた人って何人かいる。
太宰治(作家)、竹田青嗣(現代思想研究家)、村上春樹(作家)その他、yとぼちょぼいっぱいいる。
けれども、少なくとも「男が仕事に賭けるということ」とはどういうことか、それにいちばん影響を受けたのはやっぱり宮崎駿だ。
似たような話ばかり
今日も起きてからずーーーっと仕事していたが、しかしそれでも全然、まだ足りない。
やってもやっても終わらない。
月曜日に締め切り1,火曜日に締め切り2、金曜日に締め切り3、次の月曜日に締め切り4,次の水曜日に締め切り5、次の木曜日に締め切り6と仕事があって、そのどれもを終わらせるためには、自分の中で、この日までにはこれ、この日までにはこれ、この日までにはこれ、という自分内ノルマが自然と決まるわけだが、今日しなければならないノルマが、朝からずーーーっとやってても、やっと3/4が終わった感じ。で現在夜11時。あと1/4の分量を今からガーーーーっとやる。この最後の仕事は言ってみれば相当単純作業に近い。ただ、延々と何十枚かのコメントを書いていく。
土日はまだ「追加でこれもお願い」とか言われないだけまだマシなんである。
独身の頃は、忙しくても別にどーということもなかったわけだが、家族がいると、家族用の仕事というのも当然あるんで、そういうのができなくなるというのもちょっとだけ困る。

さて、また大阪で通り魔的事件があったみたいで、ここまで通り魔犯罪が増えたってのは、もうはっきりと「日本のスラム化」というか「格差のひずみ」みたいなものが定着したと考えていいのではないかと思う。

90年代、深刻な構造不況にあった日本が、世界的な潮流とITの進歩によって、目指さざるを得なかったのが「自由化」という基本方針であります。
「情報化」と「国際化」がそこには含まれる。
世界とほとんど無料で情報交換ができる世の中になったんで、世界中のあらゆるところから、自由競争での入札・調達が可能でしょ、だから国際基準のスタンダードを受け入れて、そのルールでやりましょう、的な自由化、国際化。基本アメリカ式であるけれども、これは仕方ない。どっかの国が基準になるのはまーやむを得ない。それがロシア式だか、ローマ式だか、スペイン式だか、それはその時代の優先国というのがあるものです。

その情報化国際化自由化の流れは、国内のありとあらゆるところで爆発することになる。
それをはっきりと言葉に出して、国民の7割も支持したのが「小泉内閣」の「聖域なき構造改革」というヤツであります。
私は、これを批判する気はない。あのタイミングで、それ以外の選択肢はおそらくなかった。あれがあったればこそ救われた多くのもの(たとえば長期の不況からの脱出)がはっきりとあった。
その道以外はなかったし、確かに成果をあげることができたと思う。
あの時代、なりふりかまっちゃいられなかったのだ。ジャックバウアーやほりえもんのように、イチイチこまけーこと言ってランねーというノリがないと、あの頃の深刻な状況は打破できなかったのだ。

しかし、何事にも、裏面というか副作用はつきもので、自由化というのは、結構いろんな副産物を生んだ。その最大のダークサイドが「格差」を生んだことだ。

「自由にやっていいよ」と言われたら、能力のある人は「わーい」と思って、ネットで株取引をバンバンやって、いわゆる昔ながらの労働なんかしなくても、デイトレードやらM&Aやらで、あっというまに資産数億円を作っちゃったりする。
その一方で、そんなことができない人ってのもいるわけだ。そうすると、とりこぼされちゃう。
昔は俺の方が勉強できたのに、今じゃ、俺の派遣先の社長があいつになってるの? みたいな。今じゃまともに口もきいてもらえない。時給1000円ちょっと、日給1万円、年収300万円の俺と、年収数億円のあいつとじゃ、こんなにも世界が違うのかと。あいつは女優が恋人なのに、俺は何年間彼女がいないねんと。

自由化というのは、人から言い訳を奪うものだ。
俺も自由に稼いだんだから、おまえも自由にやればよかったんだよ、だって自由なんだから。
なんで自由なのに、そんな仕事しかしてないんだよ、あ、能力がないからか。
そう、自由化とは、何をやってもいい世界、ある意味非常に公平で、だからこそ非常に残酷な力の差がはっきり出てしまう社会でもある。
会社を作るのも誰にでもできる世の中なのに、なんで作らなかったの? とか言われてもねぇ。
作れないんだよ。俺、そういうのわかんないから。
あ、でも、俺もわかんないところから自分で勉強してやったんだよ、なんで勉強しなかったの?
とかね。
自由化というのは、個人の責任に全部帰されてしまう社会なんであります。
ぜーんぶ、「自分のせい」になっちゃうのが、自由化。
「親が代々農業で、俺も農業以外の選択肢はない」というのは自由化とは逆の身分制度社会。
しかし、そこには言い訳がちゃんと残る。
「農家の家に生まれなかったら、俺だってすげー商売を成功させてやるのに」的な、酸っぱいブドウ的な屁理屈で、自分をごまかすことができる。
だけど、自由化社会じゃ、その自分への言い訳ができなくなる。
ホントは、できたはずなのに、できなかったのは、全部「自分の能力がなかった」からだし、「自分の選択が間違っていた」からだ。とにかく全部「自分の責任」だということであります。

そうして「自分の責任」で、どうしても、その格差の下の方に、いつのまにやら、組み込まれてしまって、いつ工場からリストラされるかわかんない状況にビクビクしなければならない。俺だって、昔は勉強できたのに、俺よりバカだったあいつは、あの会社の正社員で、俺は派遣だからブツブツ。女もできなきゃ、ネットでもバカにされて。

人の精神の安定のためには、たぶん最低限の「言い訳」ができる余地を残す必要がどうしてもあるんだと思う。ぜんぶがぜんぶ「自分の責任」な「自由な社会」というのは、あまりにも「過酷な社会」でもある。あそびのないハンドルのようなもので、一瞬一瞬の判断が命取りみたいな、ゆとりがない競争社会になってしまう。

そういったのが「自由化」の功罪。格差社会の到来はやむを得なかったと言えるけれども、ただその自由化にも、そろそろある程度の歯止めも必要かとは思います。
タクシーを自由化したことは、当然の流れであったが、それは多くの人を不幸にするものであったから、自由化は廃止されたみたいなもの。
自由であるのがいいなんてことはイマドキ全然ないわけであります。
忙しい
ホントに忙しく一日中ずっと書いてました。
広告の件と、家庭用品の件、ほぼ同時並行で。この2本を月曜日には終わらせて、月曜日夜からは医療用品の件を始めないと、その次の件とその次の件の締め切りがかなりガチでヤバイ。

しかし、昔から思うに、「終わるまでやめなければ終わる」。
少なくとも広告の件はほとんど終わったも同然。あと半日でなんとかなるだろう。
家庭用品は今夜が一つの山場でたぶん明日の夜が二つめの山場で、三つ目の山場が月曜日の夜だろうか。山場ばっかりが来週はずっと続くことであろう。

来週の末には4つの仕事は終わらせてなきゃダメなわけだが、それをもしもなしおえたら、相当俺はエライと思う。

今日の「めちゃイケ」はものすごくおもしろかった。「めちゃイケ」ほどおもしろい回とそうでない回の落差の激しい番組も少ないが、今日はかなり上の回。
太田の奥さんのタイタン社長がおかしい。
初めて会った日にエッチした話が、大笑い。
ただ、思うに、結婚する相手ってのは、やっぱそうなるのが普通なんではないだろうか。
夫婦にとってたぶんいちばん大事なことだし。
少なくとも俺はそういうのをもったいぶったり、カマトトぶったりする人はいやだね。
そんな相手と結婚したいとは思わない。そういう男女は長く続かないと思う。
会ってすぐエッチしちゃうようなってのは、それ尋常じゃない相性の良さってことでしょう。
お互いにそうしてもいいなって思うような相手なんて、そうそう滅多にいないんじゃないでしょうか。
(片方だけがそう思うってのはすごくたくさんあるでしょうけれども)
そういう人と結婚するってのはすごく自然というか妥当だと思う。
私小説の楽しみ
最近読んで「アタリ」のおもしろい小説。
どっちも私小説というので考えさせられる。

私小説ってのは、つまり内面描写付きのドキュメンタリーってことなんで、
●事実の持つ説得力
●事実なのに「!」という驚きの展開(ウソ物語じゃ驚かなくても、事実だからびっくりってのはある)
というドキュメンタリーの強みに加えて
●小説らしい木目細やかな心理描写/情景描写
が加えられるという、ある意味最強のカテゴリーなんである。

にもかかわらず、昭和のある時期以降、私小説ってのは、相当バカにされたジャンルになってしまった。

それはおそらく先人たちの私小説濫用によって、
▲私小説はセコくてしみったれてる(どーでもいい話だ)
▲私小説は貧乏くさい
▲私小説は自慢話か
▲私小説作家はそんなしょーもないことしか考えてないのか
その他、ネガティブな面ばかりが強調され、本来日本文学の本流であったはずのものが、すっかり衰退されていったように思います。

たとえばこないだ読んで、「ケっ」と思った内田春菊の「犬の方が嫉妬深い」も私小説ではあるけれども、あーれは、嫌だったですね。事実の持つインパクトはあったけれども、作家の自己弁護が強すぎて、悪いのはみんなヤツみたいな視線がどーにも納得しにくくて、不快感満タンだったわけだ。
これが失敗私小説。


そういうネガ面もあるものの、ここんとこ読んでおもしろかった、2つの小説をご紹介です。

暗渠の宿暗渠の宿
(2006/12)
西村 賢太

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西村賢太って初めて読んだ。噂通り、すげーおもしろい。
妙な擬古文を使ってるのがまた、私小説本流って感じ。
そしてまー題材の、究極感。この情けなさ、救いの無さ、サイテー人間感、まさに、私小説の本質。
ソープ大好きなモテない肉体労働者の、バカでダメな浅ましさや虚栄心が、見事に表現されている。
すばらしい。この救いがたさ、ナンにもならなさそうな、どこにもほめられるトコロのない感じ。
いや、うそうそ、どこにもほめられるトコロがないってわけじゃーないのだ。
いまどきだーレモ知らない(もちろん俺も知らない、てゆーか架空の人物か、もしかして)大昔の作家をひとりで持ち上げて全集を刊行しようとしてたりする。
かっこつけたところのない、人間の魂のクズな部分とピュアな部分をキッチリ描いて、確かに胸をうちます。いやーよかった。特に併録の「けがれなき酒のへど」。


もういっちょは、漫画家松永豊和の「邪宗まんが道」。これはまだ本にはなってなくて、最近WEB上で発表されたもの。
いやー一気に読みます。
例の、「金色のガッシュ」事件にあわせて、「漫画家vs編集者」をリアルに描く傑作。
こっちの感想まで書いてる時間ないので、超おすすめとだけ。
「邪宗まんが道」
明日は我が身
今、ちょっとでっかいプロジェクトのレポートを書いているんだけれども、相当ヤバイ予感が超している。

この調査は大きくは2本立て。調査の方法が異なるのだ。
一本は、CLT型調査、一本はWeb調査。
両方とも、相当な本格型ガチンコレポートで、両者とも100枚を超えるレポートになる。

私はその後者を担当している。

前者は別の人が担当している。
最初、私が2つやるという話もあったんだけれども、代理店側の判断で、やっぱ大変そうだから一本でいいよ、的な話になったのだ。
私は予定のギャラが半分になったんで、そのとき内心、ちぇっと思ったのだけれども、今、改めて思うに、やっぱ一本だけでよかった〜〜と心から思っている。
だって、半端じゃないです。

明日、その私じゃない方の件の報告会がある。明日の朝から。
で、今日の午後、その100枚ガチガチに書かれたレポートの中身について、代理店内での最終打ち合わせになった。
なったんだけど、それが、もうね、100枚、ほぼ全部書き直しに近いようなことになっている。(らしい、今電話で聞いたところ)

えーっと、ここで簡単に言うと、100枚の報告書、普通はそれに1週間以上は時間をかけます。
私は、書くのが早いってのがウリなんで、突貫工事で3日で仕上げちゃうこともありますが、それにしても超大変。
その100枚が今日の夕方5時くらいから、やり直しで、明日の朝10時だかに、カラーで印刷して得意先の報告会に持って行かなきゃいけないわけね。
印刷に1時間以上みるとして(100枚をたぶん10部くらいは出力する必要があるだろうし)、すると、明日の朝8時には書き直しを終わらせたい。9時には会社を出て得意先に行かなきゃだし。
夕方5時スタートで、朝の8時までか。15時間しかない。100枚を。
もうね、寝るとかなんとか、そういう話ではない。
担当者は何人いるのかしらないが、徹夜を手伝ってくれるスタッフをいったいどのくらいかき集められるであろうか。

しーらんと。
私は今やってるもう一本の方が、明日が内部締め切り、月曜日がデッド締め切り、その締め切り後に、たぶん、今夜徹夜している人と同じ目にあいそうな予感が120%している。

会社員時代はこういうこと、すごくよくあったんだけれども、フリーになってから、あんまりないなー。
年に1回くらいしか。
それにしても覚悟しておこう。
一晩の徹夜とかぜんぜんなんでもないんだけれども、問題は他の仕事がたくさんどれもこれもかなりギリギリで押していることなんで、そっちにどんだけ悪影響を与えるかってのが私としては一番の心配なんであります。
今年の6月はスゴイことになっている。どうしたのか。昨日計算したら売り上げもすごくいいんだけれども、ガチガチのスケジュールでまず精神的ストレスがキツイのだ。
皮むき
木曜日の朝はいつも、ペットボトルの皮むきから始まる。
家でペットボトル飲料を飲むのはほとんど私だけなので、毎週20本以上たまっているこのペットボトルをリサイクルゴミに出すのは、さすがに私の役割である。
リサイクルする方が余分に石油を使ってよっぽど環境に負荷をかけるとか、そもそも業者がほとんどリサイクル処理をしていないとか、腹の立つ噂もあるのだけれども、うちは集合住宅なんで、ヘボなゴミ捨てをやってると、同じマンションの住人たちに何言われるかわかんないので、仕方なく慣例には従わざるを得ない。

ペットボトル皮むき技術も、毎週毎週繰り返していればずっと上達してくるものであるが、それにしても

コ○・コーラ

の皮だきゃー毎回腹が立つほど剥きにくい。
この会社の製品、たとえばアクエリアスなんて結構優秀で、ちゃんとキレイに(簡単に)皮むき出来るのに、なんで、この昔ながらの会社を代表するこの商品の皮むきがこれほど不自由なのか。

やったことのある人ならご存じの通り、たいていのペットボトル皮には、ミシン目で「こっから切る」的目印ポイントがはっきりとわかるんだけれども、このコ●コーラだけはね、ないの、それが。
ミシン目も、なければ、切り込み線もない。
キレーにぐるっと一周してやんの。
おまけに、ちょっと他の皮とは材質が違って、無理クリむこうとしたときには、ビヨーーーーンと伸びやがるんである、ゴムみたいに。
その上、また皮貼ってる部分が、他ペットと違って真ん中の一部だけでさ、これがまた、ツメをひっかけにくいったらないのだ。
あらゆる意味で剥きにくいったらない。

まさに、われわれ、ペットボトル皮剥ぎ隊の仇敵。

じゃー買わなきゃいーじゃんともっともなご意見もあろうかと思うが、いやー、コーラうまいんだもん。
大好き、コカコーラ。
ペプシじゃぜんぜん違うんだよねー。
週に最低でも3本は飲むね。これからの時期たぶんもっと増えるであろう。

などとコカコーラ社の宣伝だか邪魔だかわかんないような日記。
頼むから、マジで、コーラの皮、もっと剥きやすくなってくれ。

一つビジネスチャンスプランを言うと、このペットボトル皮むき作業、これにめんどくささを感じている世の中の人は今すっっっっっっごく多いはず。
なんで、「ペットボトル皮むき器」が発明されたら、それは売れると思いますね。
「ジャガイモの皮むき器」並とは言わないが、そーとー需要はあると見た。
これ、イイのを作って、うまく売り出せれば、確実に一財産築けると思いますよ。
日々消費者の需要とメーカーの工夫の分析にあたっている一流(?)プロマーケッターが太鼓判を押すので間違いなし。
必要は発明の母。
今、ニートで何もする気の起きないあなた、君の人生をペットボトルの皮むきに賭けてみないか?
「白い巨塔」(唐沢井上ver)
仕事の合間に何を息抜きにしているかといえば、相も変わらず、昔のテレビドラマDVD。
今放送しているテレビ番組は「めちゃイケ」以外に見ているものはないと言える。

現在見ているのは満を持して真打ち登場、2003年放送のフジテレビ45周年記念ドラマ「白い巨塔」。
2003年で45周年ってことは、現在2008年なら、50周年記念ドラマがあってしかるべきではないかと思うが、どうもそういう噂は聞きません。あるんでしょうか? 普通に考えると45周年より50周年の方が気張ったものが出てきそうな気がしますが。

この10年間にあった日本のテレビドラマのうち、ベスト1は、宮藤官九郎脚本「タイガー&ドラゴン」だと主張してきたわけだけれども、いやいやいやーーー、やっぱり総合力で、「白い巨塔」かもなーと改めて思うdegonnsu。
そもそも、この骨格からして日本を代表する抜群の物語が原作にあってですね、それがまたテレビドラマとして、現在考えられる限り最高のキャスティングで(←これがいちばんのポイント)、半年ドラマとして完璧な再構成をされ、細かなエピソードや台詞はまるっきり置き換えられているにもかかわらず、原作の良さを損なわない脚本と演出。見事というほかない。完璧だ。

そもそも私は「白い巨塔」は裏番組録画にして、クドカンの「マンハッタン・ラブストーリー」をメインに見る予定だったんである。で、あるが、冒頭、唐沢がいきなり目ぇつぶって鼻歌歌いながら手術のイメージトレーニングをしている、あのシーン、あのフンフンふーーんのあの映像で、もう完全にやられた。なんじゃこりゃあああああ。形勢は完全に逆転、「マンハッタン」も素晴らしいが、結局は録画はそっち、「白い巨塔」なんてすぐ原作読んでストーリーはまるっきり先まで知ってるくせに、「白い巨塔」が優先されたのであった。

「白い巨塔」のすごさはいろんなところに何度も書いたけれども、なんといっても、キャスティングにある。これ以上ないっつーくらい、完璧なあり得ないほどの気の配りよう。こんなテレビドラマは他にゃ絶対にない。
吉祥寺拓也のベストキャスティング大賞を挙げるならば
●1位「東教授役:石坂浩二」
●2位「財前助教授夫人:若村麻由美」
この二人は絶対に外せない。一番株を上げた二人でもあるんではなかろうか。
東教授のあの嫌ったらしぃ役、あれはもー石坂浩二以外あり得ない。
よくこんな憎たらしい(まったく本人の性格の悪さを思いっきり反映した)役を石坂浩二も引き受けたものだ。そこがあのプライド高そうな彼なのに驚異的。自分がホントにどれほど嫌われ者なのかの自覚があるんであろうか? ホント、あのいやらしさは石坂浩二本人のいやらしさ抜きには無理だけど、あんなクソ役、水戸黄門がよくやったと思う。心から感服する。

そして、新境地にして、空前絶後。若村麻由美と言えば、財前杏子、財前杏子と言えば若村麻由美。
これ以前の若村さんと言えば、正直言いまして、元朝の連ドラ主演以来、パッとしない普通に綺麗な人(記憶に残らない人)という印象しかなかったわけだ。
率直にいって、私の理想のタイプが、この財前杏子役の若村麻由美。
あの、クソのような黒木瞳やら、もっと気持ち悪いウンコ的役柄の水野真紀と対比が際だって特にいい。(どっちもクソ役とウンコ役を素晴らしい演技力で演じていただけだとも言えるが)

東家は他にも奥さん役の高畑淳子、娘役の矢田亜希子、この二人がまた信じられないほどのドはまり役。伊藤英明と西田尚美他、医局員もみな新鮮でドンぴしゃ、弁護士が上川哲也vsミッチーって、それだけで別のドラマできちゃうほどのナイスキャスティング。

今、第二部に入ったところまで見た。
視聴率は第二部以降の方がいいみたいですが、私はどっちかというと第一部の方が好き。
第一部は野心の話だったけれども、第二部は死と医療の話。
第二部は悲しい。あと、やっぱ、財前ちょっとヒール過ぎ。私の大好きな東教授ほとんど出てこないし。若村麻由美のインパクトも薄れた。
どっちも物語の濃さたるや半端じゃないですけれども。
宮崎勤死刑執行
私の40年にわたる人生において、歴史的重大事件の個人的ベスト10を揚げるとしたら、

●「宮崎勤連続幼女誘拐事件」


●「オウム真理教地下鉄サリン事件」

●「阪神淡路大震災」

に並んで上位に食い込むことはたぶん間違いない。
「ロサンゼルスの疑惑の銃弾」「和歌山カレー毒物」やら「池田小事件」なんかも騒がれ方は大きかったけれども、「宮崎事件」は日本人の精神的に与えた影響力の大きさから考えてちょっと別格という気がするのであります。
「秋田の合憲君殺害」の犯人が分かったときにはそーりゃびっくりしたし、こないだの「秋葉原」もスゴイけれども、なんというか、やはり宮崎勤事件はなんというか時代を作り、またはっきり一部の人たちの運命を決定づけた、日本人のメンタリティを変える力を持った事件であったと思う。

宮崎事件の何が他の事件と区別されるかと言うと、アレは「オタク」差別史の決定的ターニングポイントになっているからだと思う。
あの事件以前には、「オタク」という言葉は一応は存在はしていたけれども、全然メジャーにはなっていなかった。
「オタク」という今の日本を代表するキーワードを、あの事件がはっきりと浮き彫りにして、またきわめて悪い印象を植え付けたわけだ。
だから、少しでもオタク寄りな生き方をしている人たちにとって、あの事件の持つ意味は、「ロス疑惑」やら「池田小」なんかとはまったく別格の重大なものになっているわけであります。
そう、「ベルリンの壁」が壊されたり、「チェルノブイリ原発」の事故以上に意味があるとすら言えるような大事件だったわけであります。

宮崎勤には、いわゆるオタク的人間の、ダークサイドが全部集結している。
「ビデオ収集」(自体はそう悪いことでもないが)「ひきこもり」「ニート」「ロリコン趣味」その他・・・。
オタク的人間はその大半が心優しい人間たちであるのに、あの事件のせいで、はっきりと「気持ち悪い」存在と烙印を押されるようになる。
そりゃ、たいていは、モテないし、実際キモい面は多々あったとは思うけれども、犯罪にかかわることはまず絶対といっていいほどないようなタイプなんである。
世間の犯罪者は、いわゆるオタクとはまったく逆のDQNタイプがほとんどを占めているのだ。
だけど、あの事件をきっかけにして、オタクはみな犯罪者予備軍という視点が加わるようになってしまったわけだ。

多くの人の精神構造に変化を与えたという意味で、本当にあの事件は重大であった。
特に私のように、オタク的世界にシンパシーを感じるものにとっては、そりゃもう、画期的なエポックメイキングな出来事だったわけであります。

それにしても、事件が起こったのは1988年〜1989年、もう20年近く昔の話であります。
私は当時大学生でした。今日も繰り返し放送されたあの事件関連の映像ははっきりと覚えています。
20年経って死刑執行。
どーみても、頭おかしいみたいだし、死刑が妥当かどうかいろいろ議論もあるみたいですが、死刑になるんだとしたらちょっと時間が経ちすぎじゃないかなというのは思いました。
オウム真理教の松本被告なんかも同様ですが。
普通に忙しい
7月頭までに完成させなければならないレポートが今7本くらいある。
そのうちの1本は今日中くらいに終わる。
水曜日目安に1本仕上げたい(ほとんど手つかず)。
今週日曜日までにもう1本仕上げたい(集計表を見てもいない)。
この3つが来週月曜日まで。いずれもまったく手を付けていない。
残り4つのうち、3つが来週中あるいはその土日明けまで。
その終わる頃に超特急が一本入る予定なのだ。

ことほどさように実は結構忙しい。
日曜日はまるまる子どもと遊ばなきゃならんかったので、土曜日はかーなりツメツメに仕事を入れて、80ページのコメントを一本ほぼ一日で書いた上に、別のレポートの最後のツメ5ページくらいも書いたのだ。

そんな中でも深夜映画見に行ったり、なんだりはしているのだ。
といっても、先週まではまだ、結構ギリで余裕があったのだ。
ちょっと今週と来週は相当忙しさピークかもね。


こう忙しいと、日課のような吉祥寺散歩もする余裕がない。
楽しみは、コンビニでジュース買ってきて飲むくらい。
そういうわけで、特に日記も書くことなし。
一日仕事をしてました。
「ギャラは弾むから、いい仕事してくれ」的なプレッシャーをかけられている件を今日から始めないとなんだけれども、これがなかなか手が動かないものだ。
気楽にいつもの調子でやったらあかんのかと、腕がすくむ。そんなたっぷりなスケジュールもらってるわけでもなし。他にもやらなきゃならんことがてんこ盛りなんである。
昔の名前で出ています
FC2にブログを移動してから1年、以前のブログ名とHNを変更して、心機一転だったのだけれども、そういう生活も1年したら飽きました。
そういうわけで、今日からまた、昔ながらの、親しんだ名前&ブログ名に戻ります。
考えてみればこの一年間も、結構昔の仲間たちは「吉祥寺」と呼ばれておりました。
それで通るなら通そうかと。

あとやっぱいちばんは、うざいストーカーみたいな追っ手をまくのが、ブログ変更の第一の理由だったんだけど、それも最近消えつつあるしね。何種類かのうちの大半は確実に消えた。それでもういっかと思ったのでした。

自分自身、マーケッターロボなり、空想生活総合研究所は、どうももうひとつしっくりなじまなかったのであります。やっぱ、吉祥寺拓也の吉祥寺自由業日記だろうと。
そういうわけで、今後ともみなさまひとつよろしくお願いします。

今日は千葉船橋市にある「ふなばしアンデルセン公園」へ。
どこがどんな風にアンデルセンなんだかはよくわからないが(全貌を見たわけでもないので)、それはたとえば「森林公園」や「昭和記念公園」などに共通する、巨大遊具コーナーに加え、ありがちな電動カートやら小プールやらの子ども大喜び公園ということであります。
ここんとこ毎週こんなんばっかり。

今日は妻が、友達と会う約束があったので、息子と二人でドライブ。
首都高を通過して京葉道の花輪ICで出ることになるので、運転所要時間は片道で1時間半くらい。
インディジョーンズ
私がいつも行く田舎のシネコンはいつもテキトーに空いているのが好きなんだけれども、さすがは「インディジョーンズ」。真夜中なのにかなりな人手。
いちばんでっかいハコが6割程度入り。
先日、水曜日の昼間、レディスデーで相当客がいた「ザ・マジックアワー」よりもお客さんは明らかに多い。深夜12時なのに。

「インディジョーンズ」は、今回もこれまでと同じノリで、テキトーにユルく、無考えに人種差別的で、映画的リアリティなど簡単にうっちゃらかった、漫画的な独自路線を進む。
スピルバーグモノの中でもこのシリーズは特に「いい加減」なんである。
それがインディジョーンズの良さ。

「レイダース」が日本にやってきた時、うちのバカ親がとっていた「赤旗」日曜版の映画評には、どれだけクソかわかんないようなクソバカな評論家が、その映画のことを「ゲテモノ」と表現していたのを、高校生(中学生だったかも)の私ははっきりと覚えている。
今にして思うと、この「赤旗」に執筆するような、左翼センスの映画評論家の見る目がいかに視野狭窄で価値判断がダサいのかがわかる。また「教養」主義的で、映画が「お勉強」の一環となっているような、ホントにアホかと思うような文章であり視点であった。
子どもの私には、「エライ映画評論家の先生がそう言うならそんなもんか」とか思ったりもしたけれども、いまならはっきりとわかる。

バカか? 映画のことをなんだと思っているのかと。
黒澤明を正座してみようとかするアホバカタイプね。ゴダールとかヒッチコックとか言い出す人がエライ人とか勘違いしているような、よくいる権威主義的な恥ずかしいタイプだ。
舶来礼賛だったり、マイナーがエライとか、そういう勘違いをおおっぴらにしている人。さすがに最近は数が少なくなったけれども、一時期まで多かったんである。何度も言うが、日本で映画を見るのがエライということになったのは、蓮見重彦の悪影響ですから。
「お勉強映画路線」とでも言いたいような、だっさーい趣味が幅をきかせてて、その凝り固まった自己愛的映画評には、クサくて鼻が曲がりそうである。

インディジョーンズ、ゲテモノ上等である。
映画に思想や教養は不要だと、スピルバーグほどはっきりと主張した作家も珍しい。
実際あの手のお勉強路線たちは、スピルバーグの扱いには困ったはずだ。
彼らの価値観では、まさにゲテモノ以外の表現もしようもないはずであるが、そのゲテモノを連発させて、世界中の人々にここまで影響を与えるものになってしまった時、さすがにこれを無視し続けることはもう不可能なはず。そうなってもなお、彼らは無視を決め込むか、あるいはいまでも斜めから見たアカデミズムで切り込もうとしているのか。
スピルバーグがエライのは、世界の一部のインテリ気取りが、揶揄的に批判しようとしたとしても、そんなバカどもの声はまったく無視して、毎回毎回いわゆるゲテモノ映画を拡大再生産し続けてきたことだ。そしてその路線が、世界中のメインストリームを席巻するに及んで、ゲテモノだとかなんとか批判していたブリッコたちの方が、恥ずかしく「浮いて」しまっている状態に持ち込んだことだ。これが天才作家の横綱相撲。評論家は常に、作家の批判しかできないが、世の中にいつも評論家の視線を超えたものを作り続けるのが本物の作家である。

蓮見重彦は世界に影響は与えないが(一部の追従者たちにおもねられるだけだ)、スピルバーグははっきりと世界に多大な影響を与えている。
スピルバーグ映画の中でも、なんというか、その評論家を混乱させるような、いちばん「バカ度」が高いというか「ゲテモノ度」が高い映画、それがこのインディジョーンズシリーズである。
全編を通じて、「教養」とか「知性」とかそういうものからいっっちばん遠いところにある映画だ。

毎度毎度、ホント、大丈夫かと思う。
当該民族からのクレームはないのか。
何十年も世界のエースでいるわりに、いつまでも魔宮の伝説みたいなことやってていいのかと。
手塚治虫全集の最後みたいに、なんか「いちぶ有色人種に対する差別的表現はありますが、平和を望み、人類は平等のため云々かんぬん」とか言い訳書かなきゃならない人とは、度胸の良さが違うよね。こういうね、バカ丸出しのスピルバーグが私は昔っっっから大好き。
簡単に言って「賢こぶろう」とかしてないのがイイ。
偽善にはいつまでも染まらない。
いつまでもバカ。いつまでもドンパチ。派手な爆発、虫と蛇がゾロゾロ。気持ちの悪い原住民をドンドコ踊りをさせて、びっくりさせてドーン。
なんという教養性の無視かと。
これが世界のスピルバーグ。

今回はこれまでに負けず劣らずのオカルト趣味。
よく考えるとこれは「三目がとおる」と同じ路線ですね。
「ムー」趣味的というか。「デキの悪い星野之宣」的というか。
SF(とも呼べないような)世界じゃありがちの、伝説つぎはぎ系。
これまでは、考古学らしく昔の伝説ネタをVFXでかっこよく再構成がウリでしたが、今回の新機軸は、なんと「宇宙」が入ってきます。うーん、逆になんでこれまでなかったんだろう的な、新鮮な驚き。
ネタバレはこれまで。
過去のインディシリーズが好きな人なら、たぶん、これは好きだと思う。
俺はおもいっきり好き。
最近スピルバーグ復活の方向性ですよね。
「宇宙戦争」からあきらかにそんな気配を感じてます。

本編の感想とは別にして、私の読み違いかもしれないが、確か前作の「最後の聖戦」によって、インディは、不老不死になったのではなかったろうか。あの聖杯にはそういう効果があるとか言ってなかったっけ? 俺の勘違い? これはさらに勘違いかもしれないけれども、インディのお父さんのショーンコネリーもそうなったんじゃなかったっけ?

それはともかく、おもしろい映画。
難しい映画を難しそうに語るのはとても簡単だが、それはほとんど意味がなく、今どきちょっと頭が悪い。おもしろい映画をそのまま楽しむことこそが人生を豊かにする、そんな気持ちに改めてさせる映画であった。
「インディジョーンズ・クリスタルスカルの王国」(スティーブン・スピルバーグ監督)
そういうわけで先行上映会の初日で鑑賞。
予想してたより、ずっとおもしろかった。
少なくとも、こないだの「最後の聖戦」よりはずっとマシ。
インディジョーンズシリーズは

1位「魔宮の伝説」(パート2)
2位「失われたアーク」(パート1)
ググーンと落ちて
「最後の聖戦」(パート3)
だったわけだけれども、今回の映画は、「失われたアーク」と同率2位だと言ってもいいくらいの出来映え。
ハリソンフォードの予想以上の老け込み具合が最初気になったけれども、その分を、例の「トランスフォーマー」の彼がその分補って活躍。

詳細は明日。眠い。
1周年
以前書いていた楽天ブログからFC2へ引っ越してきてからちょうど1年が過ぎた。
毎日記録はとりあえず継続中。
一年経ったので、また引っ越しをしようかと思ったのだけれども、特にその必要性も感じないので、とりあえずそのまま。
ただし、私は、あまり定着して継続とか、そういうことに昔から価値を見いださないタイプなので、気に入らなければまたすぐ引っ越しをする予定。
そういうわけで、昔から転職と引っ越しがすごく多い。
引っ越しは18で東京に出てきて以来、確か12回くらいしている。
今の嫁さんと結婚してからですら3回している。
人は私のことを根無し草と呼ぶが、それは本当にその通りなのであります。
特にそのことは恥じていない、むしろちょっと誇らしいというか、とりあえず自分らしいと考えている。
定着こそがイイコトっていうのは、ちょっと思考停止過ぎるんじゃないの、とかどこかで考えていたりする。

ただし継続には意味があると思っている。
たとえば、私は転職もかなりな回数しているけれども、それも1回だけ別の分野の仕事だったけど(1回だけ出版社で編集の仕事をした)、それ以外はすべてマーケティングリサーチ関連の職種。
日記も移動はしても、毎日書くことには変わりはない。
「場所にはこだわらずよく動くけれども、自分のスタイルは変化させない」というのが一応のポリシーである(今考えた)。

今日は朝からネットが不通であった。
PCやらモデムの調子ではなさそうなのは、いろいろ試してみてわかった。
たぶん、ネットワークのケーブルとかそのあたりの話。
で、USENのテクニカルサポートへ連絡するが、これがまた対応が遅い。
やっぱ、NTTにしようかと思うのはこういう時。
結局復活したのは夕方の5時。
それにしても、今日は連絡系がほとんどしなくてもいい、作業日だったんで、よかった。
これが納品しなきゃならんとか、作り物を何度かやりとりしなきゃならない日だったら目もあてられない。私がデイトレーダーだったとしたら、損害賠償請求はできるんだろうか?

ネットが不通だと、また、作業が進む進む。
他にすることがないから、ガンガン書きまくり。
昼寝を2時間ガッチリしたのも効果があったのかも。予想を遙かに超えた作業成果。
「ザ・マジックアワー」(三谷幸喜監督)
前半は爆笑。
三谷監督、このテは「合い言葉は勇気」でも使っていたような気がするが、より洗練されている。
やっぱりね、今が旬も旬、超旬まっただなかにいるノリノリの佐藤浩市と、日本コメディ界の宝・西田敏行の奥行きある演技合戦が抜群であります。
「合い言葉は勇気」と違ってSMAPがほとんど出てこないとこんなにもすっきりするのかと思う。
このご時世、いかにジャニーズを出さないか、それに腐心して作られた作品のほうがはっきりとおもしろい。制作側の覚悟が試されるというか、内容勝負という意気込みがあるからではないか。

終盤はいつもの通り、グダグダになるんだけど、(深津絵里が○○に戻るなんて、前作の松たか子の戻り方にそっくりだ)まーそれはそれ。

この作り物のような町並みはなんだと。それいったら、すべての三谷監督映画がひっくりかえってしまうが、あまりのつくりもの感の漂わせ方で、最後の最後は、(ありがちな)ぜーんぶ映画でしたオチかなーとちょっと思ったりもしましたが、それはナシ。さすがに、それはちょっと、安易だしね。

前半の爆笑の背景には、いつも通りの豪華俳優人カメオ出演があるんだけれども、それにちょっと頼りすぎかもなという気は確かにする。
なぜなら、それは、現代の日本人が見れば、ある種のパロディとしてとらえるからおもしろいけれども、10年後には確実に古くさくなっているはずだし、唐沢や谷原を知らない外人にはさっぱりなはずだ。
1回や2回は許容範囲としても、ナン連発もソレで笑わせようとしているのはどうか。
でも、おもしろいのは、確かにおもしろい。特に唐沢のセンスはやっぱり天才的だ。次代のコメディアンエースはたぶんこの人だろう。

三谷作品というのは、本人もはっきり言葉にしているように、閉ざされたシチュエーションからほとんど外に出ないシットコムが特徴だけれども、今回もやっぱりそう。というか、いつにもまして、それを強く感じさせる作り。
今回はなんの前知識もなく、ふらっと見たのだけれども、冒頭からずっと、この映画はきっと、「映画作り」自体がオチになる話だろうと感じさせるのだ。
どーみても、(わざとそう見えるようにしたとしか思えないような作りの)ミナトホテルからはじまって、寺島進の連れてくるマフィアたちの演技は、大昔の映画のようなわざとらしい動きをしてるし。そもそもまったく国籍がわからない妙な背景にファッションだし。
とにかく、画面のはしばしから「ニセモノ感」というか「作り物感」があふれまくっているわけだ。

そもそも、シットコムは、運命的にセットでの撮影が多用されるために、ロケで作られた映画と違って、どうやったって、この「作り物感」とか「安物感」は逃れられないのだけれども、今回の映画は、それを逆手にとったかのような、その「嘘くささ」を前面に出している。
場所は曖昧、国籍もウソっぽい。
いかにも全編セットで作った虚構の世界だよーんというのが、出し過ぎな感じで出ている。
たとえば前作の「有頂天ホテル」なんてのは、完全セットであったとしても、ぜんぜん、安っぽくはない、むしろ高級感すらただよう映画であったけれども、今回は違う。まさにその逆。

守加護って土地のマフィア(やくざ)の話になってんだけど、この「守加護」は「シュカゴ」と読ませるようで、そこからも連想できるように、70年代のギャング映画風な感じを、出しているわけ。


もちろん安っぽさはそのまま悪いって意味ではなくて、「これはこーゆー世界ですから」という世界観としての統一があればナンの問題もない。
ミュージカルでは、歌いながら台詞を言うという世界観だから突然歌い出しても文句はないし、宝塚は女性だけでやる演劇だから男性が出てこなくても大丈夫。人形劇は舞台の下や上に人が操作する場所があるという前提で見ているし、スターウォーズでは真空の宇宙でも飛行船が撃たれると火花が飛ぶような世界の話だ。

三谷さんは自分で監督してるくらいなんで、この世界を「こういうもんだ」と見せたかったんだろうと思う。あきらかにわざわざこんな安っぽいニセモノ風な世界を創り上げているわけだ。
それは物語には密接なつながりをもってもいるから、成功したとも言える。

糸井重里が「これは映画の映画だ」ってうまいこと言ってるから、その言葉をどうしても使いたくなかったんだけれども、しかし、まさにそれ以上の言葉は言えないくらい、ずばりそのままなんであります。
さすがは糸井重里。それ言ったらもう全部が終わっちゃうくらいに包括的な感想だ。

しかし、「映画の映画」は、必ずといっていいほど、オチで「これは全部映画でした」的なものをもってくるものです。たとえば、いちばん印象的なのは、深作キンジ監督の「蒲田行進曲」の最後とかね。
あの映画を知ってる人は、絶対最後に、あのオチが来るはずだと、身構えちゃうんだよね。
最後にあの曲が流れて、ヤスが包帯を解いて、暗幕が落ちて、小雪が花束もらって、銀ちゃんもニコニコ現れちゃうみたいな、あのシーンをどうしたって頭に浮かべながら最後まで見てしまうのだ。

そして、この三谷監督がエライのは、「この映画を見る人は、必ずそう思い浮かべるはずだ」ということを計算に入れて、あえて、最後にそのオチだけをハズしているわけ。
そういうフェイントを絶対に計算しているはず。
しかし、そのフェイントが決まらなかったら、どうだ?
柔道で、こう投げると見せかけて、体重をのせといて、足を払う、みたいな技をかけようとしているけれども、結局相手はびくともしなかったってことがある。
この映画はちょっとだけ、そうなっているんじゃないかという気がしました。

フェイントにしちゃー中途半端だし。フェイントにそもそもかからない層には、なんのこっちゃで終わりなわけであります。
全体にそうなのだ。ねらいはわかるけども、それははたして効果的だろうかと、考えちゃってるわけだ。バックステージものが好きなのはよくわかったし、これまでもそんなのばっかりだったけれども・・・。ホントに前半は大爆笑で、映画とかドラマとかで、久しぶりに本気で大笑いしました。俺だけじゃなくて、劇場中がマジでこらえきれずに大笑いでした。映画館での笑いは、常に点数が甘くなるものだけれども(たいしておもしろくなくても映画だったら笑っちゃうということは多いものだ)、この映画のギャグというかユーモアは、ほんっとーーーに心底おかしかった。こんなんないって位の大笑い間違いなし。特に
●唐沢寿明
●佐藤浩市vs西田敏行
このシーンは最高。本気で大笑い。
なんだけれども、中盤以降がちょっと残念。

結局、三谷監督でやっぱ好きなのは
1位「ラヂオの時間」
2位「The 有頂天ホテル」
で上位は変わらないかも。
中原監督の「12人の優しい日本人」を入れるならそれが1番になります。

※エンドクレジットは某監督に対するオマージュとしておもしろく感動的。
 この監督はいつもクレジットに凝っていて、前作はカーテン式がすばらしかったし、処女作は布施明の歌が大爆笑だったわけだが、今回もスゴイ懲り方。これはサプライズされた方が得。
そして、中で私がいちばんびっくりしたのは、「撮影助手 宮崎駿」って出てたこと。これはどういうこと?
CLUB KEIBA
某社にて、複数の担当者と打ち合わせ。
今日だけで、5本のレポートの内容を詰めたことになる。

この会社へはいつもクルマで行くのだけれども、今日は打ち合わせ時間が長くなることが予想されたので、電車で行った(駐車料金がもったいないので)。

いつも思うが、首都圏でやや混雑した電車に乗る時(山手線やら中央線やら)

「乗車とはすなわち、競馬だ!!」

と思う。

駅のホームで待っている時、首都圏では整列乗車が常識である。
扉の開く場所で、みな、一応並んで待っている。
この時点で、既に競馬そのもの。

まずは、その列の長さで、予想するわけだ。
どの列がいちばん先に動くか。
パッと見ると、この列は長く見える、しかし、よく見ろ、この「人と人との間」を。
この列は長く見えるようだが、しかし並んでいる人数自体は少ないのだ。
ずばり、ここは、来そうな予感がする。
この列の後ろに着いて待っているのが正解か?
俺はこの列の「馬券」を買うべきなのか?

いや、ちょっと待て。
違う、よく見ろ。
この列の「おばあちゃん率」の高さを。
この列、動きが鈍いんじゃないか。
どっと出てくる降車客たちの、波をいつまでもかわせないような、「トロいやつ」ばっかりなんじゃないか。
見極めろ、ここは並んでいいのか?
俺はこの列の「馬券」を買うべきなのか?

いや、まて、思い出せ。
もしかして、この列に人が短いのは、ここが「車両の最後尾扉」だからなんじゃないか?
扉には2種類ある。
入って、両方に広がる流れを持つ扉と、入るとすぐ行き止まりでしかも目の前にシルバーシートしかないような扉の2種類だ。
どっちだった、ここは?
俺はこの列の「馬券」を買うべきなのか?

その他、ありとあらゆる条件を総合し、どの列で電車を待つべきか、どの列に並べば、椅子に座ることができるのか、命がけの賭をすることになる。
電車に入ってからが勝負ではない。
勝負は既に並んでいる時についているわけだ。

並んでいる時に既に負けているヤツ(負け馬に賭けたヤツ)に限って、扉に入るなり、周りの人をふるいおとさんばかりの勢いで椅子をめがけて血眼になるヤツがいる。
人間、ああだけはなりたくないものだ。
おまえはウィダーインゼリーの浜田のCMか。
そうじゃない、勝負は、並ぶ時についているわけだ。

栄光の椅子に座れるかどうかは、まずホームでどこの列に並ぶかどうかにかかっている。
人生は一瞬一瞬がギャンブルであるが、そのもっともギャンブル感が出ている瞬間が、このホームで「どの列に並ぶか」の瞬間である。

すなわち、自分の列の前の人々が、自分が賭けた「馬」みたいなものだ。
この列(馬)は来る! 来ない、それを予想するのが、すなわちホームでの競馬であります。
禁句
秋葉原事件から一日いろいろ考えているんだけれども、こんな悲惨なことが起きないように、われわれがまず一番先にしなければならないこと、というか、われわれが今、ほぼ唯一できることは何か。

「好きを仕事にしよう」

ってこれもう、絶対言っちゃダメ。
こーーーんな、ウソで、ごまかして、世間一般の若者をだますのはやめよう。
そんな、調子のいい、論理的根拠が乏しすぎるテキトーなこといって、若者の射幸心を煽り、彼らをフリーターの道に誘い込むのはもうやめたほうがいい。

そうしむけた、われわれ大人が悪い。
そんなアホーなこと、いっせいに言ってるマスコミが悪い。
それを支持している私たち自身の責任だ。

成功した人は、そりゃ当然、好きなことを(たまたま)選んで成功はしたと思うですよ。
嫌いなことやってりゃ成功はしなかったかもしれない。
だけど、ぶっちゃけ、たいして好きでもないことやって