吉祥寺で暮らして働くマーケッターの、本と映画と仕事の日記
欲張りなキムタク
キムタクは欲張りだから嫌いだ。
木村拓哉はその顔やら声やらは、確かに美しい。Gakutoと並んで、世界に通用するほどの美形スターだと心密かに思っている。美形揃いのジャニーズ事務所の中でも傑出している。

しかし、例えば、ラジオ番組「ワッツアップスマップ」とか聴いたりすると、イライライライラ、何かがカンにさわって仕方ない。一人で車に乗ってると、FM付けっぱなしだからどうしても耳に入ってしまうのだ。
テレビを気分良く観ていると、ふっとあらわれるニコンのCMにも、イライライライラさせられる。

このイライラのことをちょっと考えるに、彼のあの「負けず嫌い」な性格のためか、勘違いしたに等しい、はっきりいって自惚れが過ぎる、自意識過剰ブリがどーしても鼻につくのだ。
彼が自分のことを「美しい男」と語るのは、ぜんぜん自意識過剰ではないと思う。ホントにそうだもん。それは勘違いでもなんでもない。正しい認識だ。嫌がる人もいるかもしれないが、俺はオッケー。それは自惚れでもナルシストでもない、あんだけキレイな顔なら評価されて当然。30過ぎてるのに、体型維持もきちんとしてて、スターの自覚もある、堂本剛とか見習った方がいいよね。
だから、彼が自分の見た目の良さを誇ったりするのは、超オッケーだし、当然のことだ。彼のウリはそこなんだから(つーかそこしかないんだから)。

しかし、彼が「自分のことを、いっぱしのクリエーター」とか思っていたりするとしたら、そりゃね、誰でも思うでしょうが、おまえ、それはアキラカに勘違いだよと、それは普通(キムタクファンでない限り)イラっと来るのではないでしょうか?
キムタクは、見た目の男であって、見た目「だけ」の男であります。演技の才能もある程度はあると思うですよ、「ハウルの動く城」とかちょー見直しちゃったし(演技を付けた方の演技指導がきっと素晴らしかったせいもあるだろう)。少なくとも、同じ美形でも竹野内豊とかに比べたらもー超雲泥の差、ちゃんと演技できるアイドルですよね。
でも、彼は、何かを創り出すような人ではないし、気の利いたセリフを言って笑わせるような芸人でもない。彼はアイドル(あるいは俳優)としての「プロ」であって、クリエイターのプロでもなければ、お笑い芸人のプロでもないわけだ。

そのアイドルであるはずの彼しゃべる「ワッツアップスマップ」のフリートークとか聴いてると、それがもーーー、「クリエイター気取り」がヒドイわけ。「自分が物語を作っている」感を、むりくり漂わせようと、もーそりゃね、くさくてとても聴いてられないですよ、聴いてみりゃわかるけど。金曜日の夜にやってます。こないだチラッと聞いたのも、例の話題になってる「キムタクが総理大臣になる新月9」の話をやっぱしてるんだけど、もうね、さもね、「自分がそのアイデアを出した」とか言わんばかりなわけ。おそらくは優秀な作家やプロデューサーその他大勢の企画スタッフのプロたちが、集まって、あのノータリンのキムタクをどうやったらかっこよく見せておもしろいドラマを作ることができるかに、必死にいろいろ考えているに違いないだろうに、ラジオ中のキムタクは、さも「俺がキーワードを出した」「俺のアイデアでみんなを動かしてる」的なニュアンスのことを、言いがちなんだよね。この辺がちょっと脱力で、イラっとくるわけだ。
んなわけねーだろうが。
おまえもそら一言くらい意見は言ったかもしらんが(=しかもトンチンカンなヤツを)、そういう考える作業は考えるプロたちが一番大変なトコやったに決まってるじゃんと。スターさんが変なこと言うと、みんな気を遣わなきゃいけないんだから、黙っとけっちゅーの。

「ニコン」のCMでも、キムタクが、さもさ、「自分は撮られるだけじゃなくて撮るのも好き」な芸術家風要素をアピールしたがってるじゃん。カメラといえばその先人である福山雅治も超ダサかったけど。

おまえらはただの見た目だけの男なんだから、それ以外、口出しやめとけっての。
分をわきまえろと、言いたいんである。
自分が何者なのか、勘違いするなと。

人は自分の持っているものに、十分な注意を払わず、「もっと別の何か」になろうとするものであるが、それが過ぎると、こういうウザくてイライラさせられるわけだ。
同じSMAPの中居クンが芸人気取りでつまんない司会してるのも、私は結構ダメ、観ていて辛くなる。中居クンも静かな芝居すれば、超かっこいいのに、あんなくだらないことしゃべんなきゃいいのに。おもしろいことはお笑い芸人に任せればいいじゃん、なんで、その見た目プラスαとか欲しいのかな。

欲張りすぎ。
顔だけの男達が、ただ、そのチヤホヤの波に乗って、「俺は顔だけの男じゃないんだぜ」くらいに思いたいのかもしれないんだろうが、違います。あんたは「顔だけの男」です。それ以上ではないです。
芸人になるのも、クリエイターになるのも、芸術家になるのも、しかるべき才能をもった人たちが、結構地味な努力も重ねてやっとそれで飯食っていけるようになっているものです。あんたは「顔がいい」からってその人たちの仲間にいれてもたいかもしれんが、それは無理。あんたは「顔だけ」です。

もっとアイドルとしての矜恃をもってもらいたい。
分をわきまえてもらいたい。
いい年こいて勘違いは超恥ずかしいし、みていてもイタいだけだ。
「意味という病」と「百年の孤独」と「赤朽葉家の伝説」
「A君は鼻が高い。しかし、足は短かった。」
という文章と
「A君は鼻が高い。A君は足は短い。」
という文章を比べてみる。

前後の文章の違いは「しかし」という接続語があるかどうかだけだ。
この接続語が「意味という病」だと昔読んだ本に書いてあった。

「しかし」がついた文章が、意味という病に(より)冒されているわけ。

「A君は鼻が高い」と言った瞬間、それを聴いている人はある想像を勝手にするだろうし、しかも、語り手側もきっと聴く人がとある想像をするだろうなーという推測をしているから、「しかし」という逆説がここに生まれるわけだ。
「A君は鼻が高い」と言ったら、「外人風?」とか「古い二枚目?」とか「かっこいい?」とかそういう、なんらかの言外の意味というものが、実は世の中には蔓延している。「A君は鼻が高い」と言ったら、そういう期待というか想像が来るだろうなーと思うから、言ってるほうも、「いやいや、鼻が単に高いだけでさー、別にかっこよくもなんともなくってぇー、ぜーんぜん、あなたがそんな思うような立派な意味なんかじゃなくってぇー、足は短いんだよぉおお」ということを言うために、「しかし」が差し込まれているわけである。

ところが、「しかし」のない文章はどうか。
「鼻が高い、足が短い」というのは、単に、A君の特徴を列記しただけ。ちょっと無味乾燥というか、突き放した印象のあるもの。ここから、なんらかの意味を読み取れというのは、(前のに比べて)ちょっと難しい。「へー鼻が高くて、足が短いんだー」という言葉そのままを受け取るぐらいのことしかできない。あるいは意味の深読みにずいぶん注意力とか思考力が必要になる。
語り手側には、言外に何か強い意味を持たせたくない場合、あるいはそういう意思がない、意味なんか持ってない、とそういう場合に、こんな表現を使う。
より客観的な表現というか。退屈で、感情もこもってなさそうだけれども、とにかく事実は事実として伝わるというか。言葉以上の意味をあえて付け加えないようにして言ってる感じがある。
事実の列記。
ところが、ホントいうと、「鼻が高い、足が短い」ってこの2つのことをわざわざ言ってるってだけで、言ってない他の部位に比べて、意味を持たせてはいるんだけれども、単純に「しかし」が付いている文章に比べるとやっぱり、客観的というか、突き放したというか、事実そのまま、意味付けが薄い印象がある。


で、この「しかし」の付かない、意味という病により冒されてない、文章であるが、これは、実は「神話」の文章だ。
聖書でもそうだし、ギリシャ神話でもそうか、よくしらんが、古代仏教の話もそうじゃないのだろうか(近世以降の仏教説話みたいなのは結構意味付けがウザイくらいに付いていると思う)。

語り手はかなり突き放した物言いをするんである。
神が七日間で天をつくり、地を作った。蛇がアダムにそう言った。振り向いたので塩になった。
読んだことのある人はわかるように、かなり感情が廃された文章である。
相当、感情の抜き取られた、淡々とした文章が続く。
語り手はとにかく客観的に、公平に、登場人物だれかの心情に深入りすることを避け、事実関係の記述を中心に、述べていくだけ。
これらを、脚色した映画やらアニメやら小説やらになると、もーもっとベタに、近代以降のドラマチック風味がくっついちゃって、過剰にわかりやすく、過剰に意味付けされた、表現になっちゃうんだけれど。たとえば「一目見るだけで悪役」の表情やスタイルで現れたりしゃべったりするし。そうしないととても大衆的娯楽にはならないからそりゃべつにいいんだけど。とにかく、神話については、たいていの原典はすっごく、淡々と、客観的な記述に終始し、読む側がかなり努力して思索的に行間を読もうという意思がないと、なんのこっちゃで終わるような文章である。


すっげーーーーー長い前振りになったけれども、この聖書やギリシャ神話のような、「神話的文章」が「意味という病」にあまり冒されていない文章とすれば、今回の「赤朽葉家の伝説」もすごく「神話的」なんである。
「赤朽葉家の伝説」はあのノーベル文学賞「百年の孤独」が、作者桜庭一樹の意識の底にあったんだろうなーと、ガルシアマルケス風味で、この「赤朽葉家の伝説」は書かれたんだろうなーとついつい想像してしまうが、そもそもその「百年の孤独」自体が、その神話原典の手法に挑戦した、意図的な「意味という病」を除外するため文学だったのだ。だからガルシアマルケスの亜流たる「赤朽葉家の伝説」も、やっぱりちゃんと影響通りに、「神話的文体」が維持されることになったわけだ。

おそらくガルシアマルケスほどは意識的にその表現方法を採択したわけではなさそうな気がするので、「赤朽葉家の伝説」には、いわゆる「フツーのドラマ」っぽい部分も多々あって、そうした部分と新しさが混在しているのが、まーこの小説の味わいではある。
まーしかし、フツーね、「百年の孤独」がソートータルイのと同様、「赤朽葉家の伝説」もけっこータルイよ。そのイマドキのドラマ風味なところの方がむしろ恋しいというか、アレがないとやっぱ無理。わかりやすい謎解きごっことかないとダメね、やっぱ(笑)